かっこいい大人コラム

vol.06

宗次 徳二さん

株式会社壱番屋 創業者特別顧問

1948年10月14日生まれ

趣味は寄付です。
もっとも価値があるし人生は、助け合いですから

国内外に1450店舗以上を展開するカレーハウスCoCo壱番屋の創業者、宗次德二さん。1978年、30歳で第1号店を出店して以来、右肩上がりで成長を続け、2002年に53歳の若さで引退。現在はNPO法人イエロー・エンジェルの理事長として、各種団体への寄付や奨学金、恵まれない子どもへの支援、起業支援など、さまざまな社会貢献に邁進しておられます。その活動の背景には、乳児院で育ち、ギャンブル狂いの養父のもとで極貧の生活を送ったという、子ども時代の厳しい経験がありました。

リンゴ箱の食卓とタバコの吸い殻拾い

生後すぐ乳児院に預けられ、3歳の時、養子縁組で宗次家に引き取られた宗次徳二さん。父親は帽子にネクタイ姿、母親は美しい着物を着て、3人で撮った記念写真が残っているそうです。ところが、まもなく父親は競輪にのめり込み、家庭は崩壊。愛想を尽かした母親は家を出て行き、父親と徳二さんの2人暮らしが始まりました。
 父親は日雇いの肉体労働で1日300〜400円程度を稼いだものの、ほとんどを競輪に費やし、生活は赤貧そのものでした。六畳一間を間借りして、電気代を払わないから、夜は真っ暗。食卓替わりのリンゴ箱にろうそくを1本立てて過ごしていました。また十分な食事もありません。夕方、帰ってくる父親を待ちながら、縁側に座り夕食の光景を見ていると、その家の母親が卵を溶いて、2人の子どものごはん茶碗にさらさらと分け入れています。以来德二少年は、その卵かけごはんにずっと憧れていました。
「ある時、父親に明日の昼食のパンを買っておくようにと言われて25円を渡され、市場で一斤の食パンを買いました。でもあまりの空腹に耐えかねて、食パンの底をひとくち食べたのです。すると、もう止まらなくなって、全部くり抜いて食べてしまった。その時は父親にめちゃくちゃ怒られました。また父親は肉体労働で疲れているので、黒砂糖の塊をいつもかじっている。それを父親がいないときにわからない様にかじるのです。あの時の甘い甘い黒砂糖も忘れられません。」
 そんな德二少年には、ちょっとした日課がありました。たばこの吸い殻拾いです。
「家から2、3キロのところに小さなアーケード街があり、一軒のパチンコ屋があるんです。そこへ行って、大人の足をかき分け、床に落ちている吸い殻を拾うのが日課でした。それをリンゴ箱の上に置いておくと、父親がキセルで吸うんです。ひどいおとうちゃんでしたが、それでも喜んでもらいたいという気持ちですね。それが自分の生き方の原点だったのかも知れません」

銀行からの借入金を寄付

高校1年のときに父親がガンで亡くなり、賄い婦として働いていた養母に引き取られた宗次さんは無事に高校を卒業。その後、不動産会社に勤め、職場結婚した直美さんとともに独立して、不動産仲介業を始めます。1年後、収入を安定させるために喫茶店を開店すると、今度は飲食業が面白くなり、不動産業は廃業。その4年後、カレーハウスCoCo壱番屋を創業し、破竹の勢いで店舗数を増やしていきます。
 お客様第一主義で、日々、心を込めて一生懸命働いていた宗次さんですが、1979年12月、4号店を開店したときは自転車操業が続き、従業員の給料が70万円ほど不足しました。そこで地元の信用金庫に出向き、100万円を借りることにしたのです。
この時の宗次さんの行動は、実に個性的です。100万円のうち、70万円は給料に、10万円は宗次夫婦が正月を迎えるために取っておきました。残りは1号店と4号店がある地域の社会福祉協議会に10万円ずつ、匿名で寄付をしたのです。
「多めにお借りしたので、余分はいらないんですね。経営は自転車操業ですが、日銭商売ですから、なんとかなるし、夫婦で元気に働けることへの感謝の気持ちです。本当はこうした寄付は望ましくないのかもしれませんが、しないではいられなかった。世の中、生活が大変な人がいっぱいいるので、金額の問題ではなく、今必要なのは助け合いなんですね」
 宗次さんは「チャリティー」という言葉はあまり使わないと言います。
「チャリティーと言うと、余裕ができたら私もしますという感じになってしまう気がするんですね。最初の入り口はそこでもいいですが、寄付というのは今、困っている人に手をさしのべる『助け合い』だと思うのです。少しでも余裕のある人が、まったく余裕のない人に目を向けて、なにか行動を起こす。それが寄付というものですし、一番価値があること。感謝の手紙などをいただくと、嬉しいですよ。ちゃんと使ってもらっている、必要とされているのがわかります」

一時預かりのお金を社会へ返す

自ら育てあげたカレーハウスCoCo壱番屋の経営を53歳で引退した翌年の2003年、宗次さんは特定非営利活動法人「イエロー・エンジェル」を起ち上げ、クラシック音楽やスポーツ振興、福祉団体助成などの社会貢献活動をスタートさせました。また2007年には地元名古屋の中心地にクラシック専門の「宗次ホール」を建設。「くらしの中にクラシック」をキャッチフレーズに、ほぼ連日コンサートを開催し、年間約8万人の来場者があります。
 宗次さんがクラシック愛好者を増やす活動に取り組むには背景があります。
 養母のもとで生活していた高校時代、NHK教育テレビで放送していた「N響アワー」をたまたま見て、メンデルスゾーンのバイオリン協奏曲を聞き、大きな衝撃を受けたのです。
「それまでクラシックなど、まったく聴いたことがありませんでした。世の中にはこんなすばらしい曲があるのかと。心の琴線に触れるという、まさにそんな体験です。これで人生が変わりました」
 アルバイト代を貯めて、分割で買った中古のナショナルのポータブルレコーダーでメンデルスゾーンを録音し、毎朝、学校に行く前に聴き、部活が終わって帰宅したら、また聴く。まるでとりつかれたように毎日毎日、聴いていたのだといいます。
 「宗次ホール」の一角にある宗次さんのオフィスは壁一面に書棚があり、寄付先から寄せられた活動報告書のファイルで埋まっています。愛知県の小・中・高校(一部ゆかりのある岡山県の学校)のブラスバンド部約270校への楽器の寄付、優れた若手演奏家へのストラディヴァリウスなどの名器貸与、累計300人あまりの奨学生、各種福祉団体への寄付。年間の寄付金額を決めて、その中から、あの団体には10万、こちらには60万、100万という具合で、まさに毎日が寄付の生活です。
 原資は壱番屋上場の際に株を売ったお金ですが、銀行口座に振り込まれた数字を見て「これは自分たちのお金じゃない。一時預かりのお金ね」と妻の直美さんは言ったそうです。
「いいことを言うなと思いました。それで音楽、スポーツ、福祉、起業などの分野で困った人、頑張っている人を応援することにしたんです。最近、私の趣味は寄付です、と言うようにしています」
 と笑う宗次さんですが、個人の生活ではほとんどお金を使いません。980円のシャツを愛用し、時計は7800円。たまには高級なレストランで食事もしますが、せいぜいその程度。派手な人づきあいもしないし、そもそも興味がないのです。ひとり息子には「お父さんの個人資産は全部寄付に使って、ゼロにするから」と伝えてあるそうです。

寄付は心の贅沢

 「イエローエンジェル」の活動も16年目になった今年、クラシック音楽を愛する宗次さんらしい、大きな支援活動が始まりました。小澤征爾さんなど著名な音楽家を輩出している桐朋学園大学(東京都調布市)に8億円を寄付し、「桐朋学園宗次ホール(仮称)」を建設するのです。設計は2020年の東京オリンピックでメイン会場となる新国立競技場を設計した隈研吾さん。音楽ホールでは世界で初めて、檜の木製パネルを全面的に使用するという、特別な建物になりそうです。
「桐朋学園大学とは学生さんに奨学金をお出しするという関係が続いていました。そんなある日、学長からお手紙をいただき、音楽ホールを作りたいという話だったのです。音楽大学でホールがないのは桐朋学園だけだというので、びっくりしてすぐに電話をしました。実際に敷地を見に行ったら、とてもよい場所があいているんですね。それですくに寄付が決まりました」
 2020年末に完成するという、新しい音楽ホールの話をするときの宗次さんの笑顔は、ことのほか晴れ晴れとしています。
「こんなに嬉しいことはないですね。この金額も自分のために使ったら大変です。モノには際限がないですから。私にとって寄付は心の贅沢、究極の喜びなんです」

宗次 德二 (むねつぐ・とくじ)
1948年石川県生まれ。愛知県立小牧高等学校卒業。
不動産紹介業を経て、1974年に喫茶バッカスを開業。1978年にカレーハウスCoCo壱番屋を創業。1982年、株式会社壱番屋を設立し、代表取締役社長となり、1998年に同社代表取締役会長。2002年に役員を返上し引退。2003年、NPOイエロー・エンジェルを設立し、理事長就任。2007年、宗次ホールをオープンさせる。
http://www.munetsugu.jp/index.html

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