vol.2

川淵三郎さん

公益財団法人日本サッカー協会相談役

1936年12月3日生まれ

スポーツを通して社会に貢献したい

始めるときに決めていたJリーグの社会貢献

「スポーツを通して社会に貢献したい、そのためには思いだけでなく、明確な理念と目標を持たなければならない」と言うのは、日本サッカー協会の初代チェアマンの川淵三郎さん。川淵さんが寄付をするきっかけは、Jリーグスタート直前の1993年、アメリカの「スーパーボウル」を観に行った時。ハンディキャップのある子どもたちを招待するために、特別チケットを販売したら、あっという間に売り切れたという話を聞いたのだそうです。それはいいと、すぐに東京に電話をして、「Jリーグの開幕戦に障がいのある子どもたちを招待したい、スポンサーに配った招待券を寄付として譲ってもらうように」。また、NICOSが、各クラブのチケット購入などで使う「NICOS Jリーグオフィシャルカード」の利用金額の一部を寄付すると言ってくださったことも背中を押したようです。なんと、初年度から寄付額が1000万円を超えたのには川淵さんも驚いたといいます。そんな周囲のヒントもきっかけとなり、Jリーグの寄付は始まりました。そして団体だけでなく、自分も個人として寄付をしようと決めていた川淵さんでした。

堀田力さんとの出会いで始めた誕生日寄付

Jリーグがスタートする少し前の新聞で、川淵さんは堀田力さん(当協会理事 公益財団法人さわやか福祉財団会長)の記事を読みました。「ロッキード事件の元鬼検事が、官房長の職を投げうって、高齢者福祉の団体を作った」とありました。人は皆、歳をとるから、これがJリーグの寄付先としてふさわしい、堀田先生のところに寄付しよう、と、川淵さんは、切り抜いて大事にしまってあった新聞記事を手に、堀田先生を訪ねました。寄付は喜んで受けてもらえることに。でも川淵さんには少し気になっていたことがあり、それを堀田さんにぶつけてみました。「寄付は、お金だけ出すことであり、ボランティアのように汗を流す事よりも低く見られがちですが」。それに対し堀田さんは、「寄付もボランティアも等しく尊いです。必要とされていることに応えるのですから」。それでほっとした、という川淵さん。そして、もうひとつ質問したそうです。「では、どれぐらいの金額を寄付したらいいでしょうか?」。「ちょっと痛いぐらいの金額がいいでしょうね」、と堀田さん。川淵さんは、この言葉に痺れたそうです。ちょっと痛いぐらいだと、自分も少しは役になっている、と思えるから、そうしよう、と。それ以来、川淵さんは、毎年忘れないように、25年以上、自分の誕生日に「ちょっと痛い金額」を寄付しておられます。誕生日なら忘れることはないから。と。

自分が怖い顔をしているから、相手も怖い顔になる

80歳を超えた今は、笑顔で屈託なく話してくださるので、「優しい紳士」というイメージの川淵さん。現役時代のプレッシャーはかなりなものだったそうです。古河電工サッカー部監督時代、いつも怖い顔をして挨拶する人がいたそうです。なぜだろう?と不思議に思っていたそうですが、監督を辞めた後、その人に会うと、その人は穏やかな表情になっていたそうです。そこで、川淵さんははっと気づいたのだとか。相手の表情は自分の表情の鏡だったのだと。そんなことに気づくというのも、川淵さんのナイーブで素直な本質が垣間見えます。子供の頃は、「ニコニコぶっちゃん」と呼ばれていたという川淵さん。監督時代の厳しさを超えてこそ、今の、深くて、それでいて屈託のない笑顔があるようです。

自分の為でないから、言いたいことが言える

スポーツの存在価値は、子どもたちの健全育成と、地域社会の活性化に寄与することにある、という川淵さんですが、Jリーグを大きく育てた後、バスケットボール界の改革も短期間で成し遂げられました。ビジョンを明確に掲げることを徹底した川淵さん。人のために、そして社会のために、その前提があるなら、何も恐れることはないし、言いたいことが言える、と川淵さんは言います。歯に衣を着せない話し方、しかしまっすぐなその姿勢は多くの人の共感と尊敬を生みました。サッカーをスポーツ産業として成し遂げた川淵さんは、スポーツ全体を産業として育てるためには、ビジョンを基底にしつつ、組織経営を担える人材を育てなければならない、と言います。そして日本のスポーツ界にはまだまだ伸びしろがある、とも。スポーツ界の重鎮であるはずなのですが、どこか軽やかさを感じる方です。まだまだ未来に向けて夢を持っておられるからでしょうか。朗らかな勇気をいただいた時間でした。

インタビュー:

2018年9月

公益社団法人日本フィランソロピー協会
理事長 髙橋陽子

川淵三郎(かわぶち さぶろう)
1936年大阪府生まれ。早稲田大学時代からサッカー日本代表チームで活躍。61年古河電工に入社し、サッカー部でプレー。64年東京オリンピック日本代表チームで活躍。91年からJリーグ初代チェアマン就任。2002年、日本サッカー協会会長に就任。名誉会長、最高顧問を経て、現在は同協会の相談役を務める。
15年からは国際バスケットボール連盟の要請を受け、日本バスケットボール界の改革のためのタスクフォースチェアマンとしてBリーグ立ち上げに手腕を発揮。