vol.3

加藤登紀子さん

シンガーソングライター

1943年12月27日生まれ

自分を生きるということ

東京大学在学中に歌手デビューし、年100回以上のコンサートをこなし、テレビ、新聞、雑誌で活躍されている加藤登紀子さんは、誕生日について、特別な想いをお持ちです。
ご自身が推進し、2010年に開始された「未来への手紙プロジェクト」は、赤ちゃんが生まれたときの日の感動や喜びを、文字にして残すことで、未来に伝えようとする試み。手紙には、いつか、祝福されて生まれた日のことを知れば、喜びや感謝、生きていくことへの勇気がわいてくるのでは。両親もそのときの感動を思い出せば、たとえ子育てに悩んでいても乗り越えられるのでは、との願いが込められています。
登紀子さんにとって、誕生日は「生まれたことに感謝し、未来につなぐ日」なのです。

母への想い

お母さんの淑子さんは、2017年に101歳で亡くなりました。京都で結婚して、1935年から11年間、中国のハルビンで過ごしました。三人目の子どもである登紀子さんは、戦況の悪化する1943年に、お母さんが、二重窓にぶらさげたシジミを取ろうと、敷居にのぼって産気づき、一か月も早く生まれたそうです。「分娩台に上がる前に、飛び出してきそうなところを手で押さえた」ことが、定番のエピソードになっています。
終戦もハルビンでした。守ってくれる家も国もなく、最後の1年間は収容所。厳しい日々のなか、赤ん坊の登紀子さんをおんぶしていると、だれも襲ってこなかったそうです。そのために「トコちゃんを貸して!」と頼まれ、みなの背に背負われたとか。「あなたは『お守りさん』だった」と、お母さんは語ったそうです。

91歳のときに、淑子さんは、ハルビンの日々を綴った『ハルピンの詩がきこえる』という本を出版しました。「100歳生きても威張れないけれど、誰も知らないことを見てきたことはすごいことだから、書いたほうがいい」と言い出した途端に、広告紙の裏に鉛筆で書き始めました。登紀子さんは、そんなお母さんのいきいきとした活力を、受け継いでいるのでしょう。

母へ感謝した、2018年12月27日の誕生日

登紀子さんは、年末に開催する「ほろ酔い」コンサートで、観客に日本酒をふるまい、一緒にお誕生日を祝うことを恒例としています。そこに集う、同年代の人たちの盛り上がりは、相当なものだそうです。しかし昨年は、コンサートがその前に終わり、ふたりの娘夫婦、孫6人といっしょに、零下20度のハルピンを訪ねました。
出かける前に、不思議な体験があったそうです。
コンサートで足を痛めたことで、極寒のハルビンの旅についてちょっと心配していると、事務所の傘立てのなかに、お母さんの杖を発見。それが、光り輝いて見えたとか。「母が、わたしをハルビンに連れて行きなさい、と言っているようで、涙が出てきそうになっちゃった」といいます。
そのハルビンでは、思いがけず、お母さんの本が翻訳され、出版されることがわかりました。中国では、当時のハルビンの建物や文化を復活させたいと計画していて、出版社の人たちが、その本で学習しているとのこと。喜んだ関係者が、登紀子さんの誕生日を祝ってくれたそうです。

ハルビンで、お母さんの杖と一緒に誕生日を迎え、本が出版されることもわかり、「母に感謝する、最高の75歳の誕生日になった」と登紀子さんはいいます。

自分を生きるということ

ご自身の最新の著書「自分からの人生」(2019年3月1日発売、大和書房)で、75歳からは、いのちを「めぐる」4幕目に入った世代だと書いています。1幕目は「ひらく」子供時代、2幕が「はしる」青春時代。3幕が「こえる」バリバリの現役時代。この起・承・転の素材を、4幕目でどう楽しむか。「死ぬ」ことも含めてのクライマックスだと。「そういって、自分自身を鼓舞・叱咤激励しているの」というと、気持ちよい、大きな笑い声が響きました。

生き方については、「何歳になっても、誰かに認められたいというところがあるでしょ。そんなことより、自分で納得できればいいやって思えるようになったとき、はじめて自分を生きられる」という登紀子さん。「自分に欲張りになるのも50歳くらいまで、そういったことは捨ててちょうだいというのが、わたしの考えです。窮屈なのはいやですね」と。そこで思わず、「窮屈な時代があったのですか?!」。そんな不躾な質問にも、「どっちかというと我慢のできないほう。振り返ってみると、超えちゃっているというか。ぐっと耐えたといっても1日くらいかな」と笑顔で答えてくれました。とにかくよく笑い、手を組んだり合わせたり、表情ゆたかに語る姿が、自然体なのです。 
こうしたポジティブさには、お母さんの生き方が影響していそうですね。お母さんは、いやなことは言わなかったそうですが、ハルビンからの引き揚げのときのことだけは違っていました。5歳と7歳の子どもの手を引き、登紀子さんをおんぶして引き揚げ船から降りたとき、きれいな着物を着た女性たちが迎えてくれたけれど、加藤さん親子の姿があまりに汚くて、だれも駆け寄ってはくれなかったことが、腹立たしく、空しかったと何度も話したそうです。
登紀子さんは、婦人会の人たちには感謝しなきゃいけないと思う一方で、お母さんの正直な気持ちも理解できるので、舞台衣装を含めて、困っている人に駆け寄っていけないような洋服は着ないことにしたそうです。そして「地面で同じ高さのところに座りこんで、助けられる人になりたい」と。

「できることで助ける人」をつなげて

登紀子さんは、さまざまなチャリティコンサートをしていますが、「ほろ酔い」コンサートの寄付先のひとつに「ペシャワール会」があります。アフガニスタンの戦いで、アメリカが空爆をするその下で、人々に寄り添い助けた「ペシャワール会」の中村哲さん。その活動を応援したことが、ほろ酔いコンサートでの募金の出発点だったそうです。「ひとりの日本人が、知恵をもって村に入れば、その村が救えます。そういう活動をする人たちを、心から尊敬する」といいます。
「国境」が人々を守り、「国」が人々を守るという、古典的な意味での「国家」は終わっている、という登紀子さん。この20年あまり、日本は、大きな災害を何度もくぐってきたけれど、そのなかで素晴らしいと思ったのは「人々がすぐに駆け寄り、助け合える力が、こんなにも強い国だったのか」ということ。

何ができるかは、人によって違うけれど、「目の前に大変な状況の人がいたら、自分のできることで助ける」。「それをつなぎ合わせて、網の目のように編んでいき、ひとつの布になって、世界がつながればいいなと思います」といいます。
誕生日の過ごし方は、人それぞれ。みんなが集まってお祝いをする必要はありません。ものでプレゼントをするのではなく、生まれたことに感謝する。お母さんに感謝する日でもいい。生まれたときのことを、だれかに聞く日でもいい。「その日をどんな日にしようかと、自分なりの誕生日を演出すればいいのだと思います」と登紀子さんは語ってくれました。

インタビュー:

2019年1月

公益社団法人日本フィランソロピー協会
理事長 髙橋陽子

加藤登紀子(かとう・ときこ)
1943年 中国・ハルビン生。1965 年 東京大学在学中に歌手デビュー。
1972年学生運動のリーダー・藤本敏夫と獄中結婚、その後、3女の母となる。代表曲に「ひとり寝の子守唄」、「知床旅情」、「愛のくらし」、「百万本のバラ」など。80 枚以上のアルバムと多くのヒット曲を世に送り出してきた。夫・藤本(2002 年死去) の手掛けた千葉県「鴨川自然王国」を、子どもたちと共に運営し、農的くらしを推進している。
HP :http://www.tokiko.com/